2010年11月10日

『ダンズ・テーブルって、、何?』

僕らが運営しているダンズ・テーブルの”場”。
長いあいだ外に対しての説明には、伝えにくさを感じている。
簡単に、ああそうなんだ!と納得してもらう為の説明ではなく
僕らがしていることをより自分称で、尚かつ、論じたい、分かりやすく。
と思っている。

友人である小松さんの”「話す・聴く」小論”、が
ダンズ・テーブルの”場”を理解するとき、big helpになってくれる。

いや、これは絶対僕らには論ずることのできない方向からの見方である。
小松さんにはとても大きな感謝をしている。
そして多くの方にこの小論を読んでほしい、と思っています。

以下 リンク
「話す・聴く」小論
posted by dan at 22:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

話していても書いていないこと

うちうちだけで話していてそれを書いていないことが多くて「僕が何者なのか」ということがあまり伝わっていない。それは嫌だ。それ以前に僕は話すことがあんまり上手でない。苦手だから、書いて伝える、ということをしていかないといけない。というより書くのは好きだからこうして書こう!と思い切ってマックに向かう。それにしてもいつからそれは苦手になったのかとも思い出してみるが、おそらく”周囲に合わせる”という行為を身につけてからだと思う。

決まりきっていることが僕は苦手。
こうしなさい、とか、こうである、とか、努力すれば数年後にはこうなります、だから、、、毎日コツコツやるんです、とか、やりなさい!といった類いはよく”大人”が言うのだが、僕の性分にはまるで×なこと。
いままで、おそらく30年くらいは僕の性分には×な事柄が結構多かった。ダンズ・テーブルの構想段階からまさに白紙の画用紙に「さぁ、どうぞ好きなように描いてみて」という状況がやっと始まったのです。

決まりがない、結果が完全でない、結論がない、ということに僕はとりわけ強く惹かれる。
だってこれこそが僕にとって無限で自由で際限がなく胸躍るのだ。理由なんかない。

そこに訪れた自然農は待ってましたとばかりに僕の気持ちにフィットした。とても強く。小松さんという方と共に自然農というジャンルを知る。おそらく自然農を実際に畑に向かう行為ではなくて、”自然農的”と勝手に解釈して、なんでもすべてこれは自然農的!これは自然農的じゃない!と頭のなかで出来事を判別しているのは僕の他に世界中探しても100人はいないんじゃないのかな。
決まりがない、結果も過程も不完全、結果だってあるのかもわからない、答えも、、ない?!
小松さんと話しているとぽんぽんとそんな言葉が飛び出す。しみじみと、いいんだよなぁ、こういう、会話をお互いが作り出している感じが。予定調和では決してない。どこに向かうのか膝を突き合わせる僕らがまるでわからない。僕にはこれがたまらなく好きなのです。

いろいろなことが全て、『すでに』決まっている。(と思っているだけでしょうきっと)
終わりの時間に向かって結論や答えを導きだしたりするワークショップもそうだし(もちろんとっても考えられてつくってあるものもあります)、飛躍するけど、つくばという町がつくばスタイルで埋め尽くされているわけではない(たまにそういうふうに感じるひとに出会う)。カフェはこうあるべきよ!って本が出ていたり、大きな会社に入ればあとは人生だいじょうぶよ!、と思っているひとがいたり、農の時代だ!と言うので農業を始めました、とか、、、。
うーん、何が言いたいのか、というと、
僕はどんなんだっていいと思っているんです。決まっていることなんてなんにもなくて、なんでも好きなようにやればいいんじゃない。でも、それと、すでに決まっている、というアイダ(間)には僕は結構おおきな溝があるんじゃないだろうか、と思っていて、でも結構これは僕自身もそうだけど、重傷なんだよね。すでに決まっていることに全く疑わない人もいるし、溝があるかどうかもわからない人もいる。

ダンズ・テーブルで不定期で開催している「じっくり聴く じっくり話す一日」のイベントというのは、白紙の画用紙に”さぁどうぞ描いてみて なんでも好きなように (描かなくてもいいのです実はね)”と言われるような、プロローグがあるな。消しゴムや修正液、数十種類の絵の具に水、描いても消せるけれど、跡は残るんだよなぁ。
美術館でその絵を鑑賞すると、見る人によっては筆の息づかいまでもが伝わってくる。どんな気持ちでつくったのか。場所まで?!と、そんな感じ。

どこかに行ってお金を払って何かをする。レジャーでも勉強でもなんでもいい。そういうときに人は頭のなかで、じゃあ、何を「得て」充足するんだろうか。
レジャーなら楽しさ?勉強なら、方法や答え?

「何もない」ということにお金と時間を費やすことはこの現代の社会においては、、、罪に近いか。ムダになってしまうのか。ああそうだとすると、末期だなぁ。
戻って、それは本当に「何もない」のか?
あるものばかりをゲットすることは、、、楽しい。(瞬間的な快楽、物欲や学習欲他、、)ご多分に漏れず僕もそういうことを楽しいと思うけど。でもそればかりでは、嫌なんだ。

自分自身や他者への感情のうねりに気づいたり、沈黙の時間がもたらす穏やかな時間だったり、もう本当に様々な想いが巡るわけです。
この「じっくり聴く じっくり話す一日」イベントは僕は究極の旅であるとも思っています。
頭脳の旅、想いを馳せる、ぐるぐると。
ある人はこのイベントを船に例える人がいる。偶然集まった人たちと出航し、寝食を共にし、そして帰港する。
ある人はこれは飲み会10回分だ!と豪語する。それぐらい席を設けてはじめてでてくる話があるのだと。

話していても書いていないこと。そう思って書くと結構ある。今まで何を自分は書いてきたんだか、と。そしてもっと書いてゆこうと思っております。


もう来週ですのでイベント紹介をします。
「じっくり聴く じっくり話す一日」
http://danstable.net/about/news



posted by dan at 04:40| Comment(0) | 日記・コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月07日

最近はどんな感じ?僕は。。

最近はtwitterというツールに、ここで書くはずだった事柄が移行してる。とても断片。数行にぐっと凝縮して。といっても結構それぐらいが普段あたまのなかでぽんぽん飛び出して来るフレーズなんだ。それを元に広げるって意識のほうが今まではしたくてこのブログはその記録みたいなものだった。でも、いまは重すぎるんだなそれが。かえって。
僕のこのAm Ketenes(ジプシー語で”みんな一緒!”という意味なんです実は)ブログを楽しみにしていてくれる方々(そんな方々がいるということを最近知ったので書いてます)へ、しばらくはそのtwitterで僕の近況をお知りになってください。

ではそちらでお会いしましょ。
posted by dan at 19:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月29日

僕は優しい人が好きだ
それは優しさを身に纏っている人
誤解を恐れずに言えばそれは笑顔がステキな人ではない
こころの奥底に住む温もりのある柔らかい意識を持った人だ
きっとその意識を持った優しい人はよくそのことをわかっているのだと僕は確信している
なぜならそれは無自覚的にはできないからだ

僕は今、自分のイメージのなかに「小さな柔らかい意識」を見ることができる
それは、ドラマ「大草原の小さな家」のインガルス一家の物語、と、僕の子供の頃の家族の風景だ

5年の歳月を経て、僕はようやく自分に気がついた、そんなふうに言ってもいいかもしれない
それは僕の至福とはなんなのだ、ということに

至福 それは一瞬の楽しみや興奮ではなく永続的にその人間が幸福を携えていくそれぞれの「何か」なのだろうと思う

木の家を自ら建て、カフェを始め、ランチとディナーのレストランを運営し、カントリーダンスのレッスン、カントリー、ジャズ、ジプシースイングの音楽ライブを開き、パトリスジュリアン、西村佳哲さんのワークショップを開催してきたこと

僕らにとってそれは全く同じひとつのことをやっているに過ぎないのだ

全く同じひとつのこと それは暖かな風景 だ

人々が集い、いい時間を過ごすこと 

暖かな、いい時間の概念は僕の中に無数にある

とここまで書いて、それは記す事だろうか?という僕も同居している

言わずに そのままを感じること 今どんな空気がそこに流れているのかに気をとめること どんな音が聞こえ、どんな会話があり、どんなものが自分には今見えるのか 

それは今自分がなにを感じているのかを感じること だと思うのです

言葉が勝手に歩いていること ではなくて 自分で言葉をつかまえながら話す
勝手に歩く言葉に呼応するのではなくて、その言葉を放つその人自身に近づいてみる その人そのものを聴くこと

4月より毎月やることに決めた「じっくり聴き じっくり話す一日」は僕のそんな想いを携えつつひらく場です

インガルス一家の物語と、僕の子供の頃の風景に共通するものは家族です
家族はこの地球のなかで最小単位の社会 この社会で起こることは世界に地球に宇宙に通じている

小さな集まりは、あなたに問い、まわりに問う
丁寧に時間をかけること 丁寧に自分を扱うこと、丁寧にまわりと接すること
暖かな時間とは単に心地よい場所だけではないかもしれない

僕の想いは、簡単にものごとが分かり答えが出る、その答えは一つになる、という社会へのアンチテーゼかもしれない

でも僕は今それがしたいのです

※「じっくり聴き じっくり話す一日」の詳細はこちら


 
posted by dan at 14:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月06日

タイトルなんかない

何を自分から放ちたいのか。
放ちたい、と思っていることはすなわちそれは現像となって相手に、そしてまわりに理解される。すごくおおきなもの。そしてそれは時に意味をもたないもの、が押し寄せ、潮が引くように去ってゆく。
12月に入った。今年もまた最後の月がやってきた。今年ほど、自分自身を揺さぶられた年はなかったな。でも、それは、揺さぶられたのか、揺れ動いたのか、身に降り掛かってくるものが多かったのか、はたまた自分でその種をまいたのか、くるべくしてくる事象がきたのか、わからん。それを経て今思っているのは、結構これで、いまのままでいいんじゃないか、ということ。それがかなりの安心をもって僕のなかで今着地している。というか確信に変わりつつある。
出会った人の『せい』、だとも、思う。
きっとこれからもここを作っていくと思うし、それは場所が変わっても、だれにも言われなくても、必要とされなれなくても、だれかにもう嫌だ!といわれようとも、続けていくんじゃないかと思う。
変化という意思表明の説明の責任。
でも、やっていることは全く自分のなかで変化したと思ってないのよ。
おんなじことをこの3年ずっとやってる感じ。むしろその「おんなじことをやってる」の純度が上がってきている。
どこに向かっているのか。それは自分のなかに向かっています。きっと、生きる、ということに意味なぞ持たずに生きていた幼少期に。過ごしているのはまぎれもない今この瞬間なんだけれどね。
「自分にあてた手紙のよう」
西村さんは”自分をいかして生きる”でそう本のことを書いていた。きっと、こうあるべき、なんてだれにも言えない。自分であるべきなんだよな。きっと。そうするとだれに言うことなんじゃなくて自分に宛てる、がしっくりくる。と。ほんと、そうだと思うんだよな。
僕は、あなたは、今なにを想っていますか。
言葉なんか意味ない。言葉以前と言う。居方という。放ってるものは「何か」。
「何か」を放っている。その「何か」が僕は同調しあう方達と会い続けたい。

その何かは等価交換。
その交換に意味をもってしまうと、もたせてしまうと悲しくなるときがある。
だからこんなことを言う人がいた。

等価交換はしちゃいけない。
自分の労働を等価交換することは、
働く喜び、生きがいを自ら放棄することだと。
だから贈与しつづける。

と。

しちゃいけない、ということってそれは悲しすぎるけれど、そのあたりのバランスは絶妙だなぁ。
ああ、わからないこと、不確かなことを楽しみながら生きてゆきたい。
posted by dan at 07:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月06日

いち三輪ファンとして

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posted by dan at 22:01| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月17日

三輪さんのイベント まだお席ございます!

三輪さんにまつわるこんなエントリー

ジプシー音楽、三輪さんとのお話、みなさんとの時間
僕にとって初めて、自分がステージにたつこと。
どんなお話が飛び出し、どんな「場」になるのか。
緊張しつつも第一歩を踏み出します。

7/5をどうしようか迷っている方、お席まだあります。ぜひ。
posted by dan at 00:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月21日

来るぅ!!

来る来る来る来る、くるー!

サンセベリーノにアンジェロ・ドゥバール&ルドヴィック・ベイエがー。

ジャンゴ好き、ジプシー好きには外せません!

これ、行きます。

詳しくはこちら。
http://www.plankton.co.jp/sanseverino/index.html

この人たちが来日!







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posted by dan at 22:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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