2009年12月06日

タイトルなんかない

何を自分から放ちたいのか。
放ちたい、と思っていることはすなわちそれは現像となって相手に、そしてまわりに理解される。すごくおおきなもの。そしてそれは時に意味をもたないもの、が押し寄せ、潮が引くように去ってゆく。
12月に入った。今年もまた最後の月がやってきた。今年ほど、自分自身を揺さぶられた年はなかったな。でも、それは、揺さぶられたのか、揺れ動いたのか、身に降り掛かってくるものが多かったのか、はたまた自分でその種をまいたのか、くるべくしてくる事象がきたのか、わからん。それを経て今思っているのは、結構これで、いまのままでいいんじゃないか、ということ。それがかなりの安心をもって僕のなかで今着地している。というか確信に変わりつつある。
出会った人の『せい』、だとも、思う。
きっとこれからもここを作っていくと思うし、それは場所が変わっても、だれにも言われなくても、必要とされなれなくても、だれかにもう嫌だ!といわれようとも、続けていくんじゃないかと思う。
変化という意思表明の説明の責任。
でも、やっていることは全く自分のなかで変化したと思ってないのよ。
おんなじことをこの3年ずっとやってる感じ。むしろその「おんなじことをやってる」の純度が上がってきている。
どこに向かっているのか。それは自分のなかに向かっています。きっと、生きる、ということに意味なぞ持たずに生きていた幼少期に。過ごしているのはまぎれもない今この瞬間なんだけれどね。
「自分にあてた手紙のよう」
西村さんは”自分をいかして生きる”でそう本のことを書いていた。きっと、こうあるべき、なんてだれにも言えない。自分であるべきなんだよな。きっと。そうするとだれに言うことなんじゃなくて自分に宛てる、がしっくりくる。と。ほんと、そうだと思うんだよな。
僕は、あなたは、今なにを想っていますか。
言葉なんか意味ない。言葉以前と言う。居方という。放ってるものは「何か」。
「何か」を放っている。その「何か」が僕は同調しあう方達と会い続けたい。

その何かは等価交換。
その交換に意味をもってしまうと、もたせてしまうと悲しくなるときがある。
だからこんなことを言う人がいた。

等価交換はしちゃいけない。
自分の労働を等価交換することは、
働く喜び、生きがいを自ら放棄することだと。
だから贈与しつづける。

と。

しちゃいけない、ということってそれは悲しすぎるけれど、そのあたりのバランスは絶妙だなぁ。
ああ、わからないこと、不確かなことを楽しみながら生きてゆきたい。


posted by dan at 07:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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