このブログもたどっていくと2004年にさかのぼっていく。
ということをかれこれ1weekになりそうな静養のタイミングで、webがぐちゃぐちゃになっている(なっているのは僕の頭の中だけ。だけど今現在の僕自身と隔離したwebを整理しなきゃならん使命感がいい加減になっている意味)このタイミングで知った。
04'から早くも7年が過ぎようとしている。
僕は今、moto(オートバイ)に傾いている。そんなjobを日々の時間のうちほとんどを費やす。
それは自分でも驚くほどの時間の費やしぶりだ。
読み返すブログには、幼い自分が居た、というより今を知る由もない自分が居て当時の楽しい八方ふさがり感が手に取るように見える。
自分にとっての衝動とは?なんてエントリーを書いていた時が思いのほか結構あって、”今”の自分にその答えがあって正しい計算の答えが最近でたんだ!という想いがある。
どうもこのAm ketenesブログには同じようなトピックしかなくって(自分しかそれはわからないのかもしれないが)それは今もそのトピックを抱え時間が進んでいると実感としてある。
ああ、結構いろんなことやってきたなぁ。自分よ。
でもこれからもやるぞ、自分。
お店をオープンしてる、と言うと物理的に開店してる認識が一般的かもしれない。
だから、一旦お店を閉じました、という旨のホームページの告知には、お店に来てくださっていた皆さん、ホームページをちょくちょくのぞいてくれた方々に、これはかくかくしかじかこういうことで閉めましたみたいな説明が必要だ!という想いがずっとあった。
でもそうじゃない想いが実はほとんどで割合にすると8:2ぐらい。
それは僕には”店”をやってるつもりはなくって、その実態は僕ら自身にあるのだということ。
(実際に”聴く話すワークショップ”は継続中だし、もりのがっこうも継続中)
店ではない。だから閉めたとも思っていない。なにか企てたいと思ったら始めるし、やめたいと思ったらそれはやめるに値するとても必要なモチベーションだと思っている。
うわーっ。なんだかこれ、言ってとてもすっきりした。
結局やりたい人が行動と共にdoし、やらずにはいられない人がやり、やりつづけても飽きない人が続き、そこに意味はあんまりないのかも、というのが今の僕の回答になっている。
何が自分にとっての衝動なのか?という以前の自分への問いの答えは意外に自分の中にあって灯台下暗し的だった。
さてさて。
みなさん、お元気で過ごしてらっしゃいますか?
このブログを拝見してる方、以前に僕たちと面識がある方、お店に食事やイベントできてくださった方とお会いしたいなあと考えています。
近いうちにイベント作ります!!
http://danpodcast.seesaa.net/
こんなことやってたんだよ俺。
http://danandkomatsu.seesaa.net/
いい感じでスタートしてた。止まっているのがとてももったいないのでまた始めたい。
2011年12月11日
2011年08月21日
ダンズ・テーブルから場所を移しての開催
”お互いの話をじっくり聴き じっくり話す ワークショップ”
「自然と農と人からつむぐコミュニケーション」
オーガニックファーマーズヴィレッジ @つくば にて定期開催いたします。
本日第一回開催予定でしたが雨のため中止になりました。
今後月一回の開催を予定しています。(マーケット自体は月2回開催です)
どうして僕がこのテーマばかりにこだわるのかというと、おそらくそのテーマが好きなんだ、と思います。僕の過去を辿ったり、心地よい会話について考えたり、理想の人々の居方、関係性について思ったりするとたくさんの理由に思い当たります。
このテーマが僕は気になるし、いつでも話題にしたいテーマなんだと思う。
日程が決まったらブログやツイッターでアナウンスします。
How we treated eachother.
We are the Environment.
How we treated eachother, is really how we going to treated Enviroment.
私たちをお互いにどう扱うのか。
私たちは環境の一部です。
私たちをお互いにどう扱うのか。それは環境をどう扱うのかということなのです。
〜ジョンフランシス〜
「自然と農と人からつむぐコミュニケーション」
オーガニックファーマーズヴィレッジ @つくば にて定期開催いたします。
本日第一回開催予定でしたが雨のため中止になりました。
今後月一回の開催を予定しています。(マーケット自体は月2回開催です)
どうして僕がこのテーマばかりにこだわるのかというと、おそらくそのテーマが好きなんだ、と思います。僕の過去を辿ったり、心地よい会話について考えたり、理想の人々の居方、関係性について思ったりするとたくさんの理由に思い当たります。
このテーマが僕は気になるし、いつでも話題にしたいテーマなんだと思う。
日程が決まったらブログやツイッターでアナウンスします。
How we treated eachother.
We are the Environment.
How we treated eachother, is really how we going to treated Enviroment.
私たちをお互いにどう扱うのか。
私たちは環境の一部です。
私たちをお互いにどう扱うのか。それは環境をどう扱うのかということなのです。
〜ジョンフランシス〜
2010年11月10日
『ダンズ・テーブルって、、何?』
僕らが運営しているダンズ・テーブルの”場”。
長いあいだ外に対しての説明には、伝えにくさを感じている。
簡単に、ああそうなんだ!と納得してもらう為の説明ではなく
僕らがしていることをより自分称で、尚かつ、論じたい、分かりやすく。
と思っている。
友人である小松さんの”「話す・聴く」小論”、が
ダンズ・テーブルの”場”を理解するとき、big helpになってくれる。
いや、これは絶対僕らには論ずることのできない方向からの見方である。
小松さんにはとても大きな感謝をしている。
そして多くの方にこの小論を読んでほしい、と思っています。
以下 リンク
「話す・聴く」小論
長いあいだ外に対しての説明には、伝えにくさを感じている。
簡単に、ああそうなんだ!と納得してもらう為の説明ではなく
僕らがしていることをより自分称で、尚かつ、論じたい、分かりやすく。
と思っている。
友人である小松さんの”「話す・聴く」小論”、が
ダンズ・テーブルの”場”を理解するとき、big helpになってくれる。
いや、これは絶対僕らには論ずることのできない方向からの見方である。
小松さんにはとても大きな感謝をしている。
そして多くの方にこの小論を読んでほしい、と思っています。
以下 リンク
「話す・聴く」小論
2010年09月18日
話していても書いていないこと
うちうちだけで話していてそれを書いていないことが多くて「僕が何者なのか」ということがあまり伝わっていない。それは嫌だ。それ以前に僕は話すことがあんまり上手でない。苦手だから、書いて伝える、ということをしていかないといけない。というより書くのは好きだからこうして書こう!と思い切ってマックに向かう。それにしてもいつからそれは苦手になったのかとも思い出してみるが、おそらく”周囲に合わせる”という行為を身につけてからだと思う。
決まりきっていることが僕は苦手。
こうしなさい、とか、こうである、とか、努力すれば数年後にはこうなります、だから、、、毎日コツコツやるんです、とか、やりなさい!といった類いはよく”大人”が言うのだが、僕の性分にはまるで×なこと。
いままで、おそらく30年くらいは僕の性分には×な事柄が結構多かった。ダンズ・テーブルの構想段階からまさに白紙の画用紙に「さぁ、どうぞ好きなように描いてみて」という状況がやっと始まったのです。
決まりがない、結果が完全でない、結論がない、ということに僕はとりわけ強く惹かれる。
だってこれこそが僕にとって無限で自由で際限がなく胸躍るのだ。理由なんかない。
そこに訪れた自然農は待ってましたとばかりに僕の気持ちにフィットした。とても強く。小松さんという方と共に自然農というジャンルを知る。おそらく自然農を実際に畑に向かう行為ではなくて、”自然農的”と勝手に解釈して、なんでもすべてこれは自然農的!これは自然農的じゃない!と頭のなかで出来事を判別しているのは僕の他に世界中探しても100人はいないんじゃないのかな。
決まりがない、結果も過程も不完全、結果だってあるのかもわからない、答えも、、ない?!
小松さんと話しているとぽんぽんとそんな言葉が飛び出す。しみじみと、いいんだよなぁ、こういう、会話をお互いが作り出している感じが。予定調和では決してない。どこに向かうのか膝を突き合わせる僕らがまるでわからない。僕にはこれがたまらなく好きなのです。
いろいろなことが全て、『すでに』決まっている。(と思っているだけでしょうきっと)
終わりの時間に向かって結論や答えを導きだしたりするワークショップもそうだし(もちろんとっても考えられてつくってあるものもあります)、飛躍するけど、つくばという町がつくばスタイルで埋め尽くされているわけではない(たまにそういうふうに感じるひとに出会う)。カフェはこうあるべきよ!って本が出ていたり、大きな会社に入ればあとは人生だいじょうぶよ!、と思っているひとがいたり、農の時代だ!と言うので農業を始めました、とか、、、。
うーん、何が言いたいのか、というと、
僕はどんなんだっていいと思っているんです。決まっていることなんてなんにもなくて、なんでも好きなようにやればいいんじゃない。でも、それと、すでに決まっている、というアイダ(間)には僕は結構おおきな溝があるんじゃないだろうか、と思っていて、でも結構これは僕自身もそうだけど、重傷なんだよね。すでに決まっていることに全く疑わない人もいるし、溝があるかどうかもわからない人もいる。
ダンズ・テーブルで不定期で開催している「じっくり聴く じっくり話す一日」のイベントというのは、白紙の画用紙に”さぁどうぞ描いてみて なんでも好きなように (描かなくてもいいのです実はね)”と言われるような、プロローグがあるな。消しゴムや修正液、数十種類の絵の具に水、描いても消せるけれど、跡は残るんだよなぁ。
美術館でその絵を鑑賞すると、見る人によっては筆の息づかいまでもが伝わってくる。どんな気持ちでつくったのか。場所まで?!と、そんな感じ。
どこかに行ってお金を払って何かをする。レジャーでも勉強でもなんでもいい。そういうときに人は頭のなかで、じゃあ、何を「得て」充足するんだろうか。
レジャーなら楽しさ?勉強なら、方法や答え?
「何もない」ということにお金と時間を費やすことはこの現代の社会においては、、、罪に近いか。ムダになってしまうのか。ああそうだとすると、末期だなぁ。
戻って、それは本当に「何もない」のか?
あるものばかりをゲットすることは、、、楽しい。(瞬間的な快楽、物欲や学習欲他、、)ご多分に漏れず僕もそういうことを楽しいと思うけど。でもそればかりでは、嫌なんだ。
自分自身や他者への感情のうねりに気づいたり、沈黙の時間がもたらす穏やかな時間だったり、もう本当に様々な想いが巡るわけです。
この「じっくり聴く じっくり話す一日」イベントは僕は究極の旅であるとも思っています。
頭脳の旅、想いを馳せる、ぐるぐると。
ある人はこのイベントを船に例える人がいる。偶然集まった人たちと出航し、寝食を共にし、そして帰港する。
ある人はこれは飲み会10回分だ!と豪語する。それぐらい席を設けてはじめてでてくる話があるのだと。
話していても書いていないこと。そう思って書くと結構ある。今まで何を自分は書いてきたんだか、と。そしてもっと書いてゆこうと思っております。
もう来週ですのでイベント紹介をします。
「じっくり聴く じっくり話す一日」
http://danstable.net/about/news
決まりきっていることが僕は苦手。
こうしなさい、とか、こうである、とか、努力すれば数年後にはこうなります、だから、、、毎日コツコツやるんです、とか、やりなさい!といった類いはよく”大人”が言うのだが、僕の性分にはまるで×なこと。
いままで、おそらく30年くらいは僕の性分には×な事柄が結構多かった。ダンズ・テーブルの構想段階からまさに白紙の画用紙に「さぁ、どうぞ好きなように描いてみて」という状況がやっと始まったのです。
決まりがない、結果が完全でない、結論がない、ということに僕はとりわけ強く惹かれる。
だってこれこそが僕にとって無限で自由で際限がなく胸躍るのだ。理由なんかない。
そこに訪れた自然農は待ってましたとばかりに僕の気持ちにフィットした。とても強く。小松さんという方と共に自然農というジャンルを知る。おそらく自然農を実際に畑に向かう行為ではなくて、”自然農的”と勝手に解釈して、なんでもすべてこれは自然農的!これは自然農的じゃない!と頭のなかで出来事を判別しているのは僕の他に世界中探しても100人はいないんじゃないのかな。
決まりがない、結果も過程も不完全、結果だってあるのかもわからない、答えも、、ない?!
小松さんと話しているとぽんぽんとそんな言葉が飛び出す。しみじみと、いいんだよなぁ、こういう、会話をお互いが作り出している感じが。予定調和では決してない。どこに向かうのか膝を突き合わせる僕らがまるでわからない。僕にはこれがたまらなく好きなのです。
いろいろなことが全て、『すでに』決まっている。(と思っているだけでしょうきっと)
終わりの時間に向かって結論や答えを導きだしたりするワークショップもそうだし(もちろんとっても考えられてつくってあるものもあります)、飛躍するけど、つくばという町がつくばスタイルで埋め尽くされているわけではない(たまにそういうふうに感じるひとに出会う)。カフェはこうあるべきよ!って本が出ていたり、大きな会社に入ればあとは人生だいじょうぶよ!、と思っているひとがいたり、農の時代だ!と言うので農業を始めました、とか、、、。
うーん、何が言いたいのか、というと、
僕はどんなんだっていいと思っているんです。決まっていることなんてなんにもなくて、なんでも好きなようにやればいいんじゃない。でも、それと、すでに決まっている、というアイダ(間)には僕は結構おおきな溝があるんじゃないだろうか、と思っていて、でも結構これは僕自身もそうだけど、重傷なんだよね。すでに決まっていることに全く疑わない人もいるし、溝があるかどうかもわからない人もいる。
ダンズ・テーブルで不定期で開催している「じっくり聴く じっくり話す一日」のイベントというのは、白紙の画用紙に”さぁどうぞ描いてみて なんでも好きなように (描かなくてもいいのです実はね)”と言われるような、プロローグがあるな。消しゴムや修正液、数十種類の絵の具に水、描いても消せるけれど、跡は残るんだよなぁ。
美術館でその絵を鑑賞すると、見る人によっては筆の息づかいまでもが伝わってくる。どんな気持ちでつくったのか。場所まで?!と、そんな感じ。
どこかに行ってお金を払って何かをする。レジャーでも勉強でもなんでもいい。そういうときに人は頭のなかで、じゃあ、何を「得て」充足するんだろうか。
レジャーなら楽しさ?勉強なら、方法や答え?
「何もない」ということにお金と時間を費やすことはこの現代の社会においては、、、罪に近いか。ムダになってしまうのか。ああそうだとすると、末期だなぁ。
戻って、それは本当に「何もない」のか?
あるものばかりをゲットすることは、、、楽しい。(瞬間的な快楽、物欲や学習欲他、、)ご多分に漏れず僕もそういうことを楽しいと思うけど。でもそればかりでは、嫌なんだ。
自分自身や他者への感情のうねりに気づいたり、沈黙の時間がもたらす穏やかな時間だったり、もう本当に様々な想いが巡るわけです。
この「じっくり聴く じっくり話す一日」イベントは僕は究極の旅であるとも思っています。
頭脳の旅、想いを馳せる、ぐるぐると。
ある人はこのイベントを船に例える人がいる。偶然集まった人たちと出航し、寝食を共にし、そして帰港する。
ある人はこれは飲み会10回分だ!と豪語する。それぐらい席を設けてはじめてでてくる話があるのだと。
話していても書いていないこと。そう思って書くと結構ある。今まで何を自分は書いてきたんだか、と。そしてもっと書いてゆこうと思っております。
もう来週ですのでイベント紹介をします。
「じっくり聴く じっくり話す一日」
http://danstable.net/about/news
2010年08月07日
最近はどんな感じ?僕は。。
最近はtwitterというツールに、ここで書くはずだった事柄が移行してる。とても断片。数行にぐっと凝縮して。といっても結構それぐらいが普段あたまのなかでぽんぽん飛び出して来るフレーズなんだ。それを元に広げるって意識のほうが今まではしたくてこのブログはその記録みたいなものだった。でも、いまは重すぎるんだなそれが。かえって。
僕のこのAm Ketenes(ジプシー語で”みんな一緒!”という意味なんです実は)ブログを楽しみにしていてくれる方々(そんな方々がいるということを最近知ったので書いてます)へ、しばらくはそのtwitterで僕の近況をお知りになってください。
ではそちらでお会いしましょ。
僕のこのAm Ketenes(ジプシー語で”みんな一緒!”という意味なんです実は)ブログを楽しみにしていてくれる方々(そんな方々がいるということを最近知ったので書いてます)へ、しばらくはそのtwitterで僕の近況をお知りになってください。
ではそちらでお会いしましょ。
2010年03月29日
今
僕は優しい人が好きだ
それは優しさを身に纏っている人
誤解を恐れずに言えばそれは笑顔がステキな人ではない
こころの奥底に住む温もりのある柔らかい意識を持った人だ
きっとその意識を持った優しい人はよくそのことをわかっているのだと僕は確信している
なぜならそれは無自覚的にはできないからだ
僕は今、自分のイメージのなかに「小さな柔らかい意識」を見ることができる
それは、ドラマ「大草原の小さな家」のインガルス一家の物語、と、僕の子供の頃の家族の風景だ
5年の歳月を経て、僕はようやく自分に気がついた、そんなふうに言ってもいいかもしれない
それは僕の至福とはなんなのだ、ということに
至福 それは一瞬の楽しみや興奮ではなく永続的にその人間が幸福を携えていくそれぞれの「何か」なのだろうと思う
木の家を自ら建て、カフェを始め、ランチとディナーのレストランを運営し、カントリーダンスのレッスン、カントリー、ジャズ、ジプシースイングの音楽ライブを開き、パトリスジュリアン、西村佳哲さんのワークショップを開催してきたこと
僕らにとってそれは全く同じひとつのことをやっているに過ぎないのだ
全く同じひとつのこと それは暖かな風景 だ
人々が集い、いい時間を過ごすこと
暖かな、いい時間の概念は僕の中に無数にある
とここまで書いて、それは記す事だろうか?という僕も同居している
言わずに そのままを感じること 今どんな空気がそこに流れているのかに気をとめること どんな音が聞こえ、どんな会話があり、どんなものが自分には今見えるのか
それは今自分がなにを感じているのかを感じること だと思うのです
言葉が勝手に歩いていること ではなくて 自分で言葉をつかまえながら話す
勝手に歩く言葉に呼応するのではなくて、その言葉を放つその人自身に近づいてみる その人そのものを聴くこと
4月より毎月やることに決めた「じっくり聴き じっくり話す一日」は僕のそんな想いを携えつつひらく場です
インガルス一家の物語と、僕の子供の頃の風景に共通するものは家族です
家族はこの地球のなかで最小単位の社会 この社会で起こることは世界に地球に宇宙に通じている
小さな集まりは、あなたに問い、まわりに問う
丁寧に時間をかけること 丁寧に自分を扱うこと、丁寧にまわりと接すること
暖かな時間とは単に心地よい場所だけではないかもしれない
僕の想いは、簡単にものごとが分かり答えが出る、その答えは一つになる、という社会へのアンチテーゼかもしれない
でも僕は今それがしたいのです
※「じっくり聴き じっくり話す一日」の詳細はこちら
それは優しさを身に纏っている人
誤解を恐れずに言えばそれは笑顔がステキな人ではない
こころの奥底に住む温もりのある柔らかい意識を持った人だ
きっとその意識を持った優しい人はよくそのことをわかっているのだと僕は確信している
なぜならそれは無自覚的にはできないからだ
僕は今、自分のイメージのなかに「小さな柔らかい意識」を見ることができる
それは、ドラマ「大草原の小さな家」のインガルス一家の物語、と、僕の子供の頃の家族の風景だ
5年の歳月を経て、僕はようやく自分に気がついた、そんなふうに言ってもいいかもしれない
それは僕の至福とはなんなのだ、ということに
至福 それは一瞬の楽しみや興奮ではなく永続的にその人間が幸福を携えていくそれぞれの「何か」なのだろうと思う
木の家を自ら建て、カフェを始め、ランチとディナーのレストランを運営し、カントリーダンスのレッスン、カントリー、ジャズ、ジプシースイングの音楽ライブを開き、パトリスジュリアン、西村佳哲さんのワークショップを開催してきたこと
僕らにとってそれは全く同じひとつのことをやっているに過ぎないのだ
全く同じひとつのこと それは暖かな風景 だ
人々が集い、いい時間を過ごすこと
暖かな、いい時間の概念は僕の中に無数にある
とここまで書いて、それは記す事だろうか?という僕も同居している
言わずに そのままを感じること 今どんな空気がそこに流れているのかに気をとめること どんな音が聞こえ、どんな会話があり、どんなものが自分には今見えるのか
それは今自分がなにを感じているのかを感じること だと思うのです
言葉が勝手に歩いていること ではなくて 自分で言葉をつかまえながら話す
勝手に歩く言葉に呼応するのではなくて、その言葉を放つその人自身に近づいてみる その人そのものを聴くこと
4月より毎月やることに決めた「じっくり聴き じっくり話す一日」は僕のそんな想いを携えつつひらく場です
インガルス一家の物語と、僕の子供の頃の風景に共通するものは家族です
家族はこの地球のなかで最小単位の社会 この社会で起こることは世界に地球に宇宙に通じている
小さな集まりは、あなたに問い、まわりに問う
丁寧に時間をかけること 丁寧に自分を扱うこと、丁寧にまわりと接すること
暖かな時間とは単に心地よい場所だけではないかもしれない
僕の想いは、簡単にものごとが分かり答えが出る、その答えは一つになる、という社会へのアンチテーゼかもしれない
でも僕は今それがしたいのです
※「じっくり聴き じっくり話す一日」の詳細はこちら
2009年12月06日
タイトルなんかない
何を自分から放ちたいのか。
放ちたい、と思っていることはすなわちそれは現像となって相手に、そしてまわりに理解される。すごくおおきなもの。そしてそれは時に意味をもたないもの、が押し寄せ、潮が引くように去ってゆく。
12月に入った。今年もまた最後の月がやってきた。今年ほど、自分自身を揺さぶられた年はなかったな。でも、それは、揺さぶられたのか、揺れ動いたのか、身に降り掛かってくるものが多かったのか、はたまた自分でその種をまいたのか、くるべくしてくる事象がきたのか、わからん。それを経て今思っているのは、結構これで、いまのままでいいんじゃないか、ということ。それがかなりの安心をもって僕のなかで今着地している。というか確信に変わりつつある。
出会った人の『せい』、だとも、思う。
きっとこれからもここを作っていくと思うし、それは場所が変わっても、だれにも言われなくても、必要とされなれなくても、だれかにもう嫌だ!といわれようとも、続けていくんじゃないかと思う。
変化という意思表明の説明の責任。
でも、やっていることは全く自分のなかで変化したと思ってないのよ。
おんなじことをこの3年ずっとやってる感じ。むしろその「おんなじことをやってる」の純度が上がってきている。
どこに向かっているのか。それは自分のなかに向かっています。きっと、生きる、ということに意味なぞ持たずに生きていた幼少期に。過ごしているのはまぎれもない今この瞬間なんだけれどね。
「自分にあてた手紙のよう」
西村さんは”自分をいかして生きる”でそう本のことを書いていた。きっと、こうあるべき、なんてだれにも言えない。自分であるべきなんだよな。きっと。そうするとだれに言うことなんじゃなくて自分に宛てる、がしっくりくる。と。ほんと、そうだと思うんだよな。
僕は、あなたは、今なにを想っていますか。
言葉なんか意味ない。言葉以前と言う。居方という。放ってるものは「何か」。
「何か」を放っている。その「何か」が僕は同調しあう方達と会い続けたい。
その何かは等価交換。
その交換に意味をもってしまうと、もたせてしまうと悲しくなるときがある。
だからこんなことを言う人がいた。
等価交換はしちゃいけない。
自分の労働を等価交換することは、
働く喜び、生きがいを自ら放棄することだと。
だから贈与しつづける。
と。
しちゃいけない、ということってそれは悲しすぎるけれど、そのあたりのバランスは絶妙だなぁ。
ああ、わからないこと、不確かなことを楽しみながら生きてゆきたい。
放ちたい、と思っていることはすなわちそれは現像となって相手に、そしてまわりに理解される。すごくおおきなもの。そしてそれは時に意味をもたないもの、が押し寄せ、潮が引くように去ってゆく。
12月に入った。今年もまた最後の月がやってきた。今年ほど、自分自身を揺さぶられた年はなかったな。でも、それは、揺さぶられたのか、揺れ動いたのか、身に降り掛かってくるものが多かったのか、はたまた自分でその種をまいたのか、くるべくしてくる事象がきたのか、わからん。それを経て今思っているのは、結構これで、いまのままでいいんじゃないか、ということ。それがかなりの安心をもって僕のなかで今着地している。というか確信に変わりつつある。
出会った人の『せい』、だとも、思う。
きっとこれからもここを作っていくと思うし、それは場所が変わっても、だれにも言われなくても、必要とされなれなくても、だれかにもう嫌だ!といわれようとも、続けていくんじゃないかと思う。
変化という意思表明の説明の責任。
でも、やっていることは全く自分のなかで変化したと思ってないのよ。
おんなじことをこの3年ずっとやってる感じ。むしろその「おんなじことをやってる」の純度が上がってきている。
どこに向かっているのか。それは自分のなかに向かっています。きっと、生きる、ということに意味なぞ持たずに生きていた幼少期に。過ごしているのはまぎれもない今この瞬間なんだけれどね。
「自分にあてた手紙のよう」
西村さんは”自分をいかして生きる”でそう本のことを書いていた。きっと、こうあるべき、なんてだれにも言えない。自分であるべきなんだよな。きっと。そうするとだれに言うことなんじゃなくて自分に宛てる、がしっくりくる。と。ほんと、そうだと思うんだよな。
僕は、あなたは、今なにを想っていますか。
言葉なんか意味ない。言葉以前と言う。居方という。放ってるものは「何か」。
「何か」を放っている。その「何か」が僕は同調しあう方達と会い続けたい。
その何かは等価交換。
その交換に意味をもってしまうと、もたせてしまうと悲しくなるときがある。
だからこんなことを言う人がいた。
等価交換はしちゃいけない。
自分の労働を等価交換することは、
働く喜び、生きがいを自ら放棄することだと。
だから贈与しつづける。
と。
しちゃいけない、ということってそれは悲しすぎるけれど、そのあたりのバランスは絶妙だなぁ。
ああ、わからないこと、不確かなことを楽しみながら生きてゆきたい。





